「僕は63歳で北大を定年退職した。少なくとも68歳、できれば70歳まで研究を続けられたらもう少し仕事ができた。菅直人首相に会ったとき、それを伝えるのを忘れた」
(12/9産経新聞)
「日本では定年になったら自分のリサーチを続けることはまず不可能で、続けられるのはレアケース。それが日本の組織の悪いところだ。米国では定年はない。」
今年ノーベル化学賞を受賞した鈴木章北海道大学名誉教授が、8日記者会見でそう語った。
確かに年齢で一律に退職してもらうのは能力本位な人事とは言えない。
では大学教授へ就任後定年に達するまで大学側が業績を厳しく問うてきたのか。ともすると教授そして教授会という組織は大学の中でも保身の図りやすい立場であろう。教授たちがお互いの研究成果を進退にかかわるほど突き詰めて評価してきたのかは大いに疑問が残る。
鈴木章氏は定年の無いアメリカ(の組織)を引き合いに出しているが、アメリカの大学や納税者が研究者の業績を問わずに終身的な研究環境を保障しているとはとても思えない。
一般的に日本の職場は年功序列的な人事や給与制度がまだまだ生きている。大学も長く居ればそう変わらないだろう。
厳しい業績評価の伴わない単なる定年の撤廃は、むしろ人件費が嵩む上に組織の活力を削いでしまう可能性が高い。予め既定の給与にたくさん支出してしまえば研究費用も圧迫する。
定年延長実現の前に、まず馴れ合いを排す厳正な評価制度の目途をつけなければなるまい。そして評価の低い学者には辞めてもらうのだ。
(全員評価が高く希望者全員定年延長という内部審査の結果など信用できようか)
また国から財政的支援を受けている研究機関なら単に学問の世界で評価されるだけでは不十分である。日本は財政難であるのだから税金の使途に関して研究成果はどう日本社会に還元されるのかという視点も評価基準として加えられていいはずである。