五輪・米国選手団の中国製ユニフォーム騒動に思うこと

先日ロンドン五輪の開会式で着用されるアメリカ代表団のユニフォームが騒ぎの種になった。このアメリカ代表のユニフォームは帽子から靴まで全て中国製という点が一部の人々にとって気に入らなかったらしい。騒ぎは政界まで飛び火し、失業問題に絡めて米国製の採用を主張する議員も出たようだ。騒動の結果、米国オリンピック委員会は2014年のソチ五輪で提供を受けるものは米国製にすると発表するはめになったという。

しかしオリンピック代表の制服は「国産」であるべきという考えは、偏狭かつ損なものとしか思えない。例えオリンピックへの派遣に国民の税金が投入されようがいまいが、それは同じだ。

■既に先進国の市場では「国産衣料」を見つける方が難しい
アメリカに限らず多くの先進国では市場に中国製の服が溢れているだろう。もちろん日本もそうだ。それは大多数の「国民」が中国製の衣服に手頃な価格と一定以上の品質を認め、好んで利用している結果に他ならない。にもかかわらず「国民代表」にはそれを許さないというのは、どんな善悪の基準なのか。

■外国人コーチや帰化人の採用は良いのに…。
オリンピック選手やナショナル・チームに、外国人コーチが付くことは決して珍しくない。競技の直後、揃ってテレビ画面に映る場合もある。そこで長年の努力の結末に対し、喜びや落胆を選手と共有する所が露になる。当事者たちに何の後ろめたさもないし、外国人と組んだこと自体について周囲の者が非難することもない。それに比べればユニフォームの製造を外国に委託すべきか否かなど取るに足らない問題だ。

■当事者自身が競技生活やオリンピック出場枠のために、国籍を変える場合もある
肝心のオリンピック出場を望む選手が、出身国の代表をあえて目指さない場合もある。例えばフィギュアスケート選手の川口悠子氏はロシア代表としてオリンピックに出ることを目指し、結果的に日本国籍を失った。最近では某テレビタレントがカンボジア国籍を取得し、マラソンでオリンピック出場を目論んだ。どちらも国民を代表するというより、一個人として世界最高の舞台に立つことを何より望んでいたからに違いない。オリンピック代表とは生まれ育ち(そしてユニフォーム製造)も同一の国であるべきと考える向きの人には腹立たしい行為だろう。しかし紛れもない現実として、選手たちがそういう行動を取っている。

そもそも国別で選手を選考するのは、所詮世界レベルの競技会の出場選手の選抜方法の一つに過ぎない。

また元々近代のオリンピックとは、様々な民族がスポーツを通じて交流し世界平和を築くのが理念だったはず。国別の色分けはほどほどにし、外国と関わりのある選手に対しても尊敬や表立った応援が寛容されていいではないか。

カテゴリー: 分類無し パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です