完璧な医薬品の情報を求めることの結末

肺がん治療薬「イレッサ」の副作用を巡る訴訟で、被告の国は輸入販売会社「アストラゼネカ」に続いて大阪、東京両地裁の和解勧告を拒否する模様だ。
和解勧告はイレッサ承認当初から副作用を警告する緊急安全情報を発表するまでの間に服用した患者の救済責任を国・販売会社が認めるよう勧めているという。
しかし国は他の治療薬を差し置いてイレッサの服用を強制した訳でなく、また販売会社は問題となっているイレッサによって間質性肺炎になる可能性を隠していたようでもない。現在に至っても完璧な癌治療薬が存在していないのに、新薬の副作用で賠償責任を問うのは行き過ぎではないか。

■副作用の情報を知ったところで避けられない

イレッサが使用されるのは手術不可能だったり再発した肺がんに対してである。すでに治療手段が限られている状態と言える。
そのような場面に追い込まれれば、患者は副作用で死んでしまう可能性のある治療薬でも藁にもすがる気持ちで処方を望むのではないだろうか。手を尽くした状態で余命を宣告されているのだろうから。
抗がん剤について副作用の説明が意味を持つのは、患者とその家族にとって副作用を受け止める準備になる。そして医療を提供する側から見ると訴訟対策になる。それだけだ。

■正確な副作用の情報の蓄積を得るには多くの治験参加者が必要

イレッサ訴訟の原告が求めているだろう医薬品の副作用の正確な情報とは、多くの治験参加者があってはじめて獲得できるものである。同一の病の患者を出来るだけたくさん集め、経過を観察する必要があるのだから時間もかかる。はっきり言えば結局誰かの犠牲が伴うのだ。

では現在承認されている治療薬では罹患しているがんの進行を食い止められなく、新薬を待ち望んでいる場合はどうなるか。
製薬会社が副作用の情報を積み重ね、国が薬の承認に慎重になることを求めるなら当然新薬はなかなか供給されることは無い。
切羽詰ったがん患者は「治験参加者」としてでも期待される治療薬を手に入れようと考えるだろう。そして治験で副作用が出たとしても製薬会社に予め「免責」という条件を飲まされて投薬してもらうというのがその結末ではないだろうか。

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